「わからない」と「ない」は違う
前回のコラムで、弁護士と医師は似ていると書きました.
今回は、いい意味でも悪い意味でも、「法曹と医療の世界が似ている」ことについて書きたいと思います。
(なお、法曹とは、裁判官や弁護士などのような法律実務家のことです。)
裁判における「証明」
裁判所は、紛争として持ち込まれた案件について、判決という結論を下すところです。
「和解」といって、途中で話し合いによる解決をすることもありますが、当事者の間でお互いに譲れるところがなくなってしまえば、あとは判決で白黒をつけるしかありません。
裁判所は、判決を下す際、法律上請求できる条件を満たす事実があるかどうかを「証明されているかどうか」で判断します。
証明されているといるかどうかぎりぎりくらいの微妙な場合であっても、証明されていると認められない限り、判決では「ない」ものとして扱われることになります。
でも、これは「判決ではないものとして扱う」というだけであって、本当の真実が存在しないという意味ではありません。
医学における「エビデンス」
医療の世界には、「エビデンス」という言葉があります。
これは、簡単な日本語でいえば「根拠」や「証拠」ということになります。「エビデンス」に基づいた医療といえば「根拠に基づいた医療」ということになります。
医療の世界では、信頼されるエビデンスとは、統計学上有意な差が得られた研究結果に基づく根拠のことを指すことが多いようです。
簡単にいいますと、数少ない症例の報告よりも、無作為抽出をしてたくさんの人を比較対照した結果の方が信頼できる、ということです。
医学の世界では、「エビデンス」に基づいた医療が求められます。
ですから、エビデンスがない場合には、その治療方法は基本的に推奨されませんし、保険適応にならないことが多いと思います。
患者が症状をいくら訴えても、根拠づけができなければ、治療をすること自体難しいということになります。
でも、これも先ほどの裁判所の話と同じで、エビデンスがないからといって、ある治療方法に全く効果がないとは限りません。
また、現時点でよく知られた検査方法で異常や陽性などの結果が出ないからといって、患者が訴えている症状が存在しないとは限りません。
「わからない」と「ない」は違う
このように、法曹の世界も医学の世界も、あくまでも今の制度や現代科学の限界という中で、何かしらの結論を出さなければならないので、「証明」や「エビデンス」を要求しているわけです。
他方、法曹の世界も医学の世界も、これを悪い意味でも使ってしまうことがあります。
裁判官や弁護士の中には、証明にまでは至っていないくらいの「グレー」な状況であるにも関わらず、「真実ではない」などという曲解をする人も少なからずいます。
医学の世界では、現代医学ではまだ研究が不足しているだけであるかもしれないのに、診断がつけられない患者の訴えを詐病扱いし、「心の問題」などという医師がいます。
このように、法曹の世界も医学の世界も、「証明」や「エビデンス」というものと、「真実であるか否か」や「原因や根拠が存在するか否か」をきちんと区別できていない場面がみられます。
ですが、これは明らかに誤っています。証拠やエビデンスがないのは「わからない」のであって、事実や疾患が「ない」ことではありません。
こうした間違った理解が続く限り、本当の被害者は全く救われません。
裁判ですべての人を救えるわけではありませんし、現代医学の限界というものの当然あるでしょうから、すべての人を救えとはいいません。ただ、法曹の世界も、医学の世界も、「謙虚さ」をもつべきだと思います。
少なくとも、「わからない」ものを「ない」ということだけはやめてほしいと思います。