Last Night I Had The Strangest Dream (昨日とてもおかしな夢をみたんだ)
のっけから英語のタイトルでまごついた方もいらっしゃるかもしれません。実はこれが歌のタイトルであることを知っている人はどれくらいいらっしゃるでしょうか。
「昨日とてもおかしな夢をみたんだ」・・・という出だしから始まる歌は、そのあとに、「世界のみんながもう戦争をしないという宣言をしたんだ」、と続きます。三拍子のちょっとのんきな調子で歌われるこの歌は、誰もが願いながら実現の可能性がありそうにもない「夢」を描くのです。楽しげに語られる、兵器を捨てるという「戦争放棄」の行いは、それが実現可能性がない「夢」であるだけに、歌の中でのはしゃぎようが一層悲しく感じられます。
人間の社会のある限り、戦争はなくならないのでしょうか。これまでの記録された歴史からみても、人と人が敵味方に分かれて大規模な殺戮を繰り返す「戦争」は数限りなくありました。しかも、20世紀には目を覆うほどの悲惨で無差別の大量殺戮が世界規模で行われています。戦争は人間の宿業なのだとさえ考えてしまいそうです。
しかし、このような見方に「否」と答え、ものの見方を転換することを迫る本に出会いました。戦争のない平和な社会は、いまは「夢物語」のようにしか思えないが、それは遠い過去、現実にあったことなのだというのです。
事務所報第34号でも簡単に紹介したのですが、その本は、リアン・アイスラーという人の「聖杯と剣」という本で、「われらの歴史、われらの未来」という副題が付いています。考古学、文化人類学関係の本なので、一般向けの本というわけではありませんが、専門用語が頻繁に出てきたり、難解な理論が出てくるわけではないので、普通に読むことが可能です。
人間の歴史については、文字による記録はあまり古い時代には残されておらず、紀元前数千年のこととなると出土品や遺跡などによる考古学的な検証に頼ることになります。
これらの出土品や遺跡を調べていくと、古ヨーロッパでは、紀元前4000年くらいまでは、大規模な戦争が何度もあったことが出土品や遺跡、そこにあった遺骨の損傷状態などから確認できるが、それ以前になると、それが見られなくなるというのです。人の骨などの出土品はありますが、大量の死者が出たことや戦死を窺わせるような遺骨の損傷はなく、壁画、生活用品、住居の設備などからみると、相当に高度な文化が長期間にわたって存在していたことが窺え、それは約6000年間続いてきたのではないかというのです。もちろん局所的な紛争はあったでしょうし、個々の犯罪もないはずがなかったと思いますが、あくまで部分的なものであり、人々が敵味方に分かれ殺戮を行うというような、今我々が思い描く「戦争」などではなかったというのです。
約6000年にわたる平和な社会。私たちにはそれこそ想像もつかない社会です。紀元後たかだか2000年程度の期間に、私たちの社会はどれだけの戦争をしてきたかを考えれば、これは全く別世界の出来事にしか思えなくなります。紀元前4000年くらいまでは戦争の存在が確認出来るということを考えれば、現在の私たちは、その先祖から、約6000年にわたり戦争に明け暮れてきたということになるのです。
途方もない期間ですが、著者は、それ以前には、同じ程度の期間にわたって戦争のない平和な社会が続いていたというのです。
では、なぜ約6000年もの間戦争のない平和な社会が維持できていたのでしょうか。著者は一つの仮説を立てています。この社会の構成原理は、今の私たちが生きる社会とはかなり異なっていたのではないかというのです。その構成原理を、著者は、「協調形態型社会」と呼びます。人と人との関係の基本を、支配従属ではなく、協調・協力に見るのです。この中には、男女の協力関係もあり、ここでは、私たちの社会にみられるような男女の上下、支配従属という関係は存在せず、協同して社会を形成していたと考えます。これは単なる想像ではなく、この時期の出土品や遺跡にある壁画などから考察されたものなのです。本の中では、この社会での人々の生活の姿などをかなり詳しく考証しています。生活の基本原理が協調・協力という関係であり、紛争はあっても協議による解決が基本とされ、指導的立場に立つ者は存在するが、それは支配するためではなく、権力はそれを恣意的に使うことは許されず、むしろ人々に対し責任を負うことと理解されていたというのです。平和な社会が長期間続くことで文化は成熟し、私たちのもつ技術文明とは違ったかたちではあっても高度な進化を遂げていたと著者は考えています。その証拠となるのが遺跡に残された壁画や、装飾品等の出土品だというのです。
私は、この本を読みながら、何か別の世界の進化のすがたを見ているような気持ちになりました。今ある私たちの社会は、どこかで進むべき道を誤り、迷路に迷い込んでしまったのではないか、我々の6000年は、迷妄の6000年だったのではないだろうかと。過去にこのような「平和な社会」の現実があったというのであれば、そのあり方や構成原理・生活原理は、今破綻に瀕している私たちの社会を救うヒントにはなりはしないだろうかとも思ったのです。
しかし、残念なことに、この平和な社会も紀元前4000年ころから崩壊に向かいます。著者が「支配者形態型社会」と呼ぶ、攻撃し殺戮し支配するという全く別の社会の構成原理をもつ人々(クルガン族)が次第に古ヨーロッパに移動し、ついには全域を支配するようになったのでした。このクルガン族からの侵攻に対応するため、平和であった社会にも変化が生じ、各地で戦乱が続くようになったのです。クレタ島のミノア文明が、火山爆発によって壊滅状態となり、約6000年続いてきた平和な社会も終焉を迎えたのでした。
クルガン族が古ヨーロッパ全域を支配するようになってからは、その社会の構成原理(攻撃し殺戮し支配する)が社会に浸透するようになりました。それから現在までに至る歴史は、私たちのよく知るとおりです。その後約6000年に及び戦乱に明け暮れる日々が普通である社会が続いているのです。
著者は、この構成原理が、その後数千年にわたり当然のことのように考えられ、それが現在につながっているのだと論じます。人間社会あるかぎり戦争はつきものであるというような発想に対し、著者は、それは、この攻撃・殺戮・支配という原理にとらわれたものの見方でしかないのだけれども、約6000年にわたる歴史の中で人々の意識に骨の髄まで染みこんでしまっているため、容易にはそこから離脱することはできないのだと指摘します。
著者はさらに次のように読者に訴えかけます。
しかし、今や時代は容易ならざる時期に来ている、我々の方向を間違った技術文明は、すでに全人類を何度も破滅させるに足るだけの兵器を持ち、それを使おうとさえしている。戦乱のなかに人類の歴史を終焉させるか、皆が平和に生きる社会を作り上げるかは、運命でも宿命でもなく、人類自らの選択なのだ、そして、平和な社会は過去に人類が実現したことのある社会であったのだ、と。
私がこの本を初めて読んだのは、もう10年以上も前のことになります。ちょうどイラク戦争があり、そこに日本の自衛隊を派遣するということで反対運動が盛んに行われていた時期でした。戦場に自衛隊を派遣することを自己目的とするような政府の動きに非常に危険なものを感じ、私も反対の活動に参加したりしているなかで出会った本です。
約6000年もの間戦争のない平和な社会があったということをこの本で知り、とても衝撃を受けました。そして、静かな勇気がわいてくるというか、何とも言えず、やすらかな気持ちになったことをおぼえています。平和な社会は絵空事でもなんでもなく、人類が一度は実現できていた社会なのだということを知るだけでも、人間というものを信じていくことができるように思ったのです。
今回、久しぶりにこの本を読みはじめたのは、昨今の憲法改正や自衛隊派遣等を巡る日本政府の危険な動きもあり、再び「戦争」について考えるようになったことからでした。すでに集団的自衛権に基づく自衛隊派遣が可能な状態にあり、現実の「戦争」と向き合わなければならない段階に日本は来てしまいました。国会では、改憲派が憲法改正可能な議席数を占め、改憲に向けての具体的なスケジュールまで議論される状態です。今の日本は「戦争ができる国」を目指してひた走りしているようです。こういう状態だからこそ、私たちは何のために「戦争」をするのかを考える必要があるように思います。この本は、戦争と私たちの社会を考える上でとても触発されることの多い本でした。
※この本に関心を持たれた方は是非ご一読をおすすめします。
リアン・アイスラー(野島秀勝訳)「聖杯と剣」
法政大学出版局 叢書・ウニベルシタス329 書籍コードISBN4-588-00329-1
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