息子たちが20歳になった!!振り返りのツインズ子育て(その2)
双子の場合、幸か不幸か母親とべったりというわけにはいかない。もちろん基本的には母親優位だが、それなりに父親にも寄り添ってくる面がある。たとえば寝るときに、横に母親がいなくても彼らはほとんど気にしない。そういう意味で、形式母子家庭の父親としては、双子のほうが子育てに参加する意義を感じることができるのかもしれない。
双子だから、こんな大変なこと、とか、こんなおもしろいこと、っていうのは、すぐにはピンとこない。まあ、現在進行形だからだろう。
気にかけているのは、不公平にならないこと。たとえば、つかみあい、ひっかきあいの喧嘩はしょっちゅうなのだが、当然「おにいちゃんだから我慢しなさい」などという仲裁はできない。しかも、どちらが悪いというのも判然としない。しょうがないから、「顔の正面はひっかくな」とか「いつまでも、しつこく叩くな」「血を出すな」という訳のわからない仲裁になってしまう。
また二人いると、いちいち抱いていられない。片方を抱くと、当然不公平。しかし、一度に二人を抱くと、結構しんどい。僕自身、ぎっくり腰になりかけた。だから小さい頃から、よっぽどのことがないと抱かない。その結果、子供も、抱いてくれるなどとは思わないらしい。この頃、弁護士の仲間の家族と一緒にルスツに行ったが、半日以上引き連れて歩いても、彼らは一度も抱いてとは言わなかった。もっとも、一方が眠くてふらふらになって転んで泣いたときには、さすがにこちらから抱き上げた。
親として、怒るときも結構ある。そんなとき僕は、悪いことをした奴よりも、もう一方の反応を気にしている。怒られている本人は、当然感情的になっているのだが、他方は、意外に冷静に親の反応をみている。たとえば、一緒になって相手をしかる立場になったり、親の機嫌が悪いと悟って、妙に従順になったりもする。妙なもんだ。
そうやって、心密かに「自由と平等」をモットーに子育てをしている。
そうこうしているうちに、二人の性格や好みはずいぶん違ってきた。これは、確かにおもしろい。たとえば、豆腐とキノコの味噌汁を食べさせると、一方が豆腐ばかりを食べ、もう一方がキノコばかり、とか。寝かしつけるときに、一方は親とベタッとくっついて寝るのに、他方はそこたら中をゴロゴロころがりまわって寝る、とか。トイレは、一方はギリギリにならないと行きたがらないのに、他方はしょっちゅう行くとか、などなど・・・。こんなことは、同時進行だからよくわかる。
どこの家でもそうだろうが、子供は不思議に親に似る。容姿はもちろん、ちょっとしたしぐさや、たどたどしい言葉遣いにも、遺伝子の力を感じる。それで、子供の悪いことをみつけたとき、たいていの親は、相手方(配偶者)に似たんだ、と冗談を含めて言うことだろう。ところが双子の場合、これがかなりやっかいだ。というのも、彼らは明らかに違う。すると、一方がどちらかに似れば、他方はもう一方に似ていることになる。一方が切れるタイプ(突然乱暴になる)で、他方はねちっこい(いつまでもぐずぐずする)。あるいは一方が独占欲が強いと(相手のものは自分のもの)、他方はタンパラ(すぐに投げ出す)などなど。そうなると、お互い「あんたに似たんだ」などと、軽々しく言えない。まあ、人にはそれぞれ多面的な性格があるんだ、とかいって自分を納得させるしかない。
ちなみに、彼らの容姿は少し見慣れれば、他人でも容易に違いがわかると思う。顔立ちは比較的キリッとしているが、足が短く、お尻が大きいのがR平(こいつは、父親のおなかを「ブタポンポン」という)。顔は完璧に父親似で、髪の毛が少し茶色っぽく、妙にひょうきんなのがK平(こいつは、父親に似て意固地)。
どんな点にせよ、親に似ているというのは、頼もしくもあり、多少将来に不安を感じたりもする。
双子だと、他人の子供やマニュアルと比べることがあまりない。そんな余裕などないのが現実。ただ、彼らだけをみていても、それぞれ成長が違う。違うのが当たり前。違うことはよくわかる。だから、そのうち大丈夫なんて、思うこともあって、人様のことはあまり気にならなくなる。たとえば、言葉にしろ、用便にしろ、当初遅いという気持ちはあったが、だからどうだ、という感じのままで、そのうちできるようになった。
二人とも未熟児で生まれてきたので、健康であるのが一番だと、ずっと思っている。この気持は、子供が一人でも、基本的に同じでいい様な気がする。親が思うようには子は育たないし、思った以上に子は育つもんだ。
彼らは、この9月に3歳になった。早いねえと言われるが、「自分の家の子は、思っていたほど大きくなるのは早くない。」、そんな感じ。
しかし、この3年間にたまったアルバムを見かえしてみると、それなりの月日の流れを感じる。苦労を思い返すのと、おもわずニヤッとしたりする。
今でも家に帰って、自分だけグタッとする時間は余りない。なんやかんやと、彼らとの格闘だ。最近では、あやふやな言葉も入り交じって、いい加減なことは口にできない。
それでも、今が一番いい時期なのかもしれないと、思ったりもする。酔っぱらって帰ったときに、布団をはねとばして寝入っている子供たちの顔をみていると、そんな風に思う。
来春、彼らは、3年保育の幼稚園に入る予定。かみさんは、彼らを、まあ「いいとこの、おぼっちゃん」ふうに育てたいらしい。反対はしないが、しょせん僕の遺伝子が半分だ。僕は、野生児がいいなあ、と思っている。それもこれも、彼らの人生。それを邪魔しない程度の親でいたい。
* * *
彼らの写真は、事務所報には小学校1年の夏まで掲載していたのだが、「いやだあ。」と言われてストップ。年賀状も家族写真を使っていたのも小学生の間まで。とはいうものの、写真を撮るのとアルバムを整理するのは、ある種趣味みたいなものです。3年ほど前、子どもたちが生まれてからのネガフィルムもほとんどデータに落とし(3000枚強)、デジタルフォトフレームにしてかみさんへの誕生日プレゼントにしました。かみさんは、思いのほか喜んでくれ、今もダイニングの良く見える場所で、15分おきに違った想い出写真を写してくれています。
そんな昔の写真も少しだけ掲載しました。まあ今さらツインズも文句は言わないでしょう。これも、まるっきり親バカでしょうがないなあ、と思ったりもします。
最後までお付き合いいただいてありがとうございました。
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